「水墨画とは」カテゴリーアーカイブ

水墨画 描き方 コスモス


水墨画 コスモス 描き方

コスモス(秋桜)、細い葉っぱと、テレビで風に揺れてるイメージが強いので、可憐な感じがしますが、花びらは太く、立派です。

花びらの向き、色、場所で、1枚の紙にどんな「流れ」を生み出すか?考えてから、描き始めます。

1. 花びら

  • 花びらの先っぽが、二つに割れてるので、筆の先を割ったり、2回に分けて描くと雰囲気がでます。
  • 花びらは8枚。上2枚を描き、両脇、下部分という順番で描くと、形を取りやすいです。
  • 風を受けてゆらゆらしている感じ、細い茎の先に花びらがついている雰囲気は、花を色々な方向に向かせるとでます。花の方向は、花びらの長さを変えて描きます。
  • 下の花びらを短く、上を長くすると、咲いた直後、上を向いてる感じ、左側を長く、右側を短く描くと、横を向いた感じ、下を向かせるには、上の花びらを短く、下側を長くします。
  • また、1つの花は、墨を付け足さないで描くと、徐々に色あせていく濃淡がシブいです。濃い花、薄い花を描くと、距離感がでます。自分が一番訴えたい花の向き、位置、形、の花は一番濃く描いてアピールしましょう。

2. めしべ、おしべ

  • 真ん中のめしべ、おしべも、結構大きく。

3. 茎、葉

  • 茎や葉は、薄墨で。筆は線描と同じ形にします。
  • それぞれの花に茎がついていることだけ意識しながら、描きます。実際のコスモスの茎が絡み合っているように、絵でもそれほど律儀に描く必要はありません。

アートと権威 保護行政と社会性、貧乏

視聴率?全く気にしてない!というプロデューサーの談話。よく聞く話だ。デキの悪い作品でも視聴率がよければいい番組と言われる、から・・・という言葉がたいてい続く。

作品の善し悪しは、お客さんが決めるのではないか?自分で今イチでも、人気がある作品がある。お客さんの動向を気にしながら、作品を生み出すのが、創作活動の醍醐味でないか。テレビ放送は強力な売り場、自ら売る必要がない。

テレビを批判する番組で、漫才グループの爆笑問題が「じゃあ自分で作ってみろよ」と言ってるのを見た。例えば、陶器を作る職人が、作品に文句をつける流通問屋に「そんなに言うなら、自分で作れよ」なんて言うだろうか?第二日テレ、電波少年と同じT部長が作ってるのに、なぜ見る人が少ないのか?売り場の立地に違いだろう。テレビの恵まれた利点は利用すべきだが、そのことを忘れてはいけない。

なにごとも、ギョーカイという世界がある。この世の中、業界の評価、世間体を気にするが、お金を落としてくれる本当のお客さんに目が向いてないことが、よくある。先日見に行った「舞楽」の公演、買い求めたパンフレットの最後にこんなようなことが書いてあった、「舞楽について、詳しくは述べない。見たままを感じて欲しい」 見てもよく分からなかったから、パンフレットを買ったのだ。お客様が神様でなく、伝統芸を修練しているギョーカイ内の自分達が神様になっている。

国宝、文化庁助成金コンサート、スシポリス、放送など、行政で保護しなければ生き残れないものを、文化と言えるのだろうか。文化は社会の鏡。鏡は、直接対象物を映す。アートは、国に権威づけされるより、個々のお客さんとの対話で存在したほうが面白い。人間国宝の方は、尊敬するけれど、公演に行くかといったら別問題。自分の財布は、自分が欲しいアートに使いたい。国から権威づけのないポップスターと歌舞伎の師匠だったら、ポップスターのほうが偉いのではないか。

お客さんと接点がなく、本来役割を失っている文化を保護すると、ギョーカイ内だけの論理で生きのびてしまう人種が現れる。ハンス・アビングは、「なぜアーティストは貧乏なのか;p.232」で「アーティストへの助成は、アーティストの数を増やし、収入を低くし、貧困を助長する」と述べている。道路公団、銀行、建設業界への保護行政で、「本来退場するはずの会社が生き延びる」という議論はよく聞く。文化にもあてはまる。

とある講演会で、ourplanetTVの社長が、現在のネット世界は、テレビ草創期にみんなが手探りで工夫を重ねていた時代とたぶん同じ雰囲気だろう、と言っていた。現在のテレビ局は、結局、華やかさ、体制維持などの主張ばかりでつまらない。

3月24日の稲本響と武田双雲のコラボライブ、武田がお客さんに筆でリクエストを書かせ、即興で稲本が弾く、という試みをしていた。自立したアート、社会性のあるアーティスト活動でいいなぁと思う。ライブ終了後、クラシック業界の人は、「あそこの運指がダルってたね」「あのフレーズは古典からだ」と言っていた。。。ギョーカイ内の評価はこうなるけれど、「いいねぇ」とお客さんの評価が勝るのではないか。

売れた本、曲、絵、映画、思想が、今スタンダードとして残っている。アートも勝者の歴史だ。御用絵師であろうと、草双紙であろうと、誰か対象者がいて初めて存在する。クリエイティブな修行は自己鍛錬であり、お客さんには関係ない。アートマーケティングは、まず、作品の出来映えを自己基準に置かない処から始めたい。

水墨画南天棒模写:▼をクリックすると動画が始まります

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ポスト産業資本主義と水墨画

文芸春秋3月号に岩井克人教授の現代ビジネス分析が掲載されている。産業資本主義では、モノの所有、生産が富を生み出す。つまり、安価な労働力と売価の差が利潤となった。労働賃金が上昇すると、利潤が薄くなり、ポスト産業資本主義に移行しているという。ポスト産業資本主義では、違うモノを開発した企業が利潤をあげる。違うモノ、新しさは、同じ機械では生産できない。ヒトしか生み出せない。そこで、ヒトが投資対象になるという分析だ。社会的に見れば労働賃金が上昇し、生活が豊かになれば、嗜好が多様化し、ヒトと同じモノを身につける見栄の感覚が減少する。

ウォーホルがキャンベル缶を作品にしたのは、まさに産業資本主義のアートだったからに他ならない。ポスター、リトグラフの再生産も、産業資本主義の社会を写していたのだろう。音楽も、CD,ラジオ、レコードを使うことで、再生産を繰り返すことが可能だ。水墨画は、印刷すれば再生産を繰り返すことができる。アートのビジネスは、こうした商業的広告的デザイン的な換言で、利潤をあげてきた。アートの大量生産、どんなヒトも同じポスターの絵柄を見る。キャンベル缶はキャンベル缶である。

ポスト産業資本主義社会で水墨画は、どのような文脈を持てるのか?水墨画は墨一色の芸術である。言い換えると、表現の制約、鑑賞の自由がある。産業資本主義は、生産者重視の社会である。基本的にモノ不足であるから、メーカーが一番力を持つ。現在は、モノ余りの世の中である。消費者は欲しいモノしか買わず、メーカーよりもビックカメラ、ヤマダ電機、イオンなど流通が価格決定権を持っている。生産者重視の社会では、アーティストの主張が詰め込まれた作品が作られた。偶々、新日曜美術館を見ていたら、池田満寿夫が芹沢介特集で、最近デザインは自己主張が強いが芹沢さんは違うということを話していた。1984年の映像。

そこで、水墨画である。色の多様性をハナからもぎ取られた水墨画は、色の決定権を見るヒトに委ねる。墨色の紅葉は、見るヒトによって黄色、オレンジ、真っ赤に感じる。同じヒトでも、見る時間によって色が変る。表現を制約することで、変化を内在するアート。受け手にとって常に新しく、変化するアートになる。

多様化な社会、アートの利潤はどこに生まれるのか。大量再生産にはお客さんは振り向かない。かといって、1点モノを生み出して得られる収入と生活に必要な支出は不釣合い。先週のヘラルドトリビューンに、JPEGが商売になっているというNY発の記事がでていた。JPEGは流通コストがタダに近い(インフラ業者以外)。JPEGに経済価値がつくなら、こんないいことはない。また、オークションなどインターネット上は、より手軽に身近だ。流通市場が身近なら手放すときのリスクも少ないから購入しやすい。自分のコレクションも、ネット上で公開する時代が普通になるのだろうか。

水墨画は、ポスト産業資本主義に最も呼応したアートになりうる。それには、多様なヒトが多様に見える仕掛けを施すことが必要だ。

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全体の抽象・分析の抽象 見立てと分解

Abstract この写真何に見えるだろうか?カビ?魚の群れ?種?何に見るかは、人それぞれの自由だ。水墨画は、画題の精神性という側面から解説されることが多い。自分の心のうちを具象を使って表すという。しかし、この解釈の仕方って、宗教画を研究するイコン学?の影響を受けすぎではないだろうか?僕の仮説は、ただ写実に自然を写し取る絵にすぎない、というものだ。

歴代名画記(大抵水墨画評論の古い本は、この本を参考にしてる)に、「吹雲」という話が載っている。墨を口に含んで、吹き付ける。それを絵と称す。あるいは、王默という人が、「酔って髪に墨をつけて描く」という話が載っている。落語にも、左甚五郎が描いたグチャグチャとした何かが、雀となって飛び立つ、抜け雀という話がある。

このような絵画の考え方、分析好きな西洋では発展しない考え方だろう。プラトンは、絵描きを実態と本質の間を形にしてしまうとして、嫌っていたという。より本物ぽく、動きをデッサンし、色を描く。色は光である。本質に近づくための文脈が、印象派を産み、キュービズムを生んだ。西洋アートの文脈で、抽象を描くとイッちゃう作品になる。植物、生物の生態、ファーブル昆虫記が突き進むと、もう何かわからない原子、電子の世界での議論と同じである。モンドリアンの樹、ピカソの顔の絵を見て、子供が美しいと思うだろうか?僕は少なくとも綺麗だとは思わなかった。それは、人間の脳で作られた人工の世界だからであろう。

一方、適当に吹き付けた模様に何かを見る。森を見て、西洋的ロジック分析思考を働かすと、フラクタルになる。全体を見ると、例えば蛙森のような呼び名が生まれる。水墨画の抽象、村上隆述べるところの西洋アートの文脈に載せるのか、東洋の伝統を意識するのか、アートのマーケティングで考えるべきところである。

全体と部分という話は、どうしても乗り越えなければならない課題だ。しかし、こんなことを考えるのが何の役にたつのか?多数決、民意、人気、検索順位、現代社会の行動規範は、個別の積重ねが全体の総和、意思に等しくなるという概念に基づいている。しかし、実感として、そうじゃないこともあるんではないかと感じることが多い。例えば、グーグルだって検索1位のサイトが、自分の見たいサイトでないことは多い。それに、巷では世界で一つの花、個性を強調しているのに、議会の意思決定は多数決なのは、矛盾していないか。合成の誤膠を、アートで表現できるなら、それは、全体性、調和という概念のプロモーションに有効だと考える。

分析、分解を突き詰めた結果、あまり美しくない図になるのと、雲の形に美しさ、違う概念を導入するのと、どちらが見ていて心地よいだろうか?後者であろう。自然の形状から美を取り出す取り組み、「見立て」。水墨画の抽象画は、分解分析の抽象ではなく、全体、見立ての抽象、西洋アートに対するは新しい概念軸ではないだろうか?

さて、水墨画の精神性、題材、構図に精神性を求めるのは無理があるだろう。自然を紙の上でただ表現した、にすぎないと思う。鳥を描いて、鳥に見える。虚空を見つめるのでなく、餌を探す、他の鳥を見ている、だけだと思う。あるいは、紙上に自分が空を見て、見えたものを紙に表現したのではないかと考える。水墨画の抽象画、分析でない絵画としての水墨画を作っていくべきだ。

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遠近法 細分化 認知

長期記憶と短期記憶、机に隠れた足があると認識するのは、人は「期待、記憶」で見るからだと、ソルソは述べる。(脳は絵をどのように理解するか 絵画の認知科学、新曜社、ロバート・L・ソルソ)ヒトの認知、視覚が「3次元のものを2次元で見て、3次元で理解するように、数億年以上進化してきた」という事実を、遠近法にあわせ解説している。よく言われるルネサンスによる遠近法の確立は線遠近法の確立であり、ぼかし、対象の大小などは、エジプト絵画、水墨画など、世界各地に存在していたと指摘している。

ヒトの認知が、長期記憶に基づいているならば、売れる絵画は、より多くのヒトの記憶、最大公約数に基づくものになるのではないか?芸術は社会の鏡であるという言葉は、このことを言っている。マーケティング、社会学的に、好みが細分化してしまった社会では、最大公約数はなんなのか。印象派、ピカソ、などは、目と脳の働きの科学的な分析、認知に関する哲学的な真理の追究を、絵を通して実現していたと言える。水墨画は、僧侶という職業が別にあった人も多い。洋の東西を問わず、絵画、美術にはパトロンがいた。ということは、マーケットは初めから細分化された、一部のものであった。再び、マーケットが細分化された世の中で、パトロンなしにアートで収入を得ることはどういうことなのか。

イデア 水墨画滲みと西洋絵画遠近法

Waterjump グチャグチャと描いた水墨画が、何かに見えるのは、脳が過去記憶から似たものを取り出すからだ。左甚五郎のぬけ雀が、ある朝飛び出すかどうか、見る人の経験に基づく。水墨画の紅葉が、一瞬紅く見えるのも、まず形を紅葉と認識し、その形をしたものが紅かった記憶があるので、一瞬紅く見えるのだろう。紅葉と認識されなければ、紅くもなく、また黄色の紅葉を思い出した人は、黄色く見えるだろう。重要なのは、モノは目が見ているのではなく、脳が認識するもので、ゆえに人それぞれ見え方が違うことを意識することだ。

アートでは、描いたものが見た人の脳に何を呼び起こすか、を考えて描く必要がある。ゼキは、プラトンなどギリシャの哲学者は、紙の上にある絵は、イデアを写した仮の姿として、否定的に捕らえられたが、イデア自体も描き手の中にある「恒常的なもの」なものだと述べた。恒常的なものは、人の経験に左右される。視点を定め描く遠近法は、西洋絵画の、イデアを万人の恒常的なものにしようとした試みではないか。

一方、グチャグチャに描く水墨画、滲んだままにする墨絵は、モノをある構図で捕らえない東洋的な本質の表現である。分析的な西洋哲学思想でなく、捕らえ方を人それぞれに委ねる、全体的な思考の提示である。

脳はどのように絵を理解するのか?

Pramtreesumieinkdrawing 脳はどのように絵を理解するのか?

名作は何故名作たるのか?を、脳の動きで解明する試みは、興味深い。それを知ることで、名作を生み出す手助けになるかもしれないからだ。

セミール・ゼキは、モノは脳が見ている(脳は美をいかに感じるか、セミール・ゼキ、日本経済新聞社)として、人間は、今までの経験と実物を照合、統一しながら、モノを感じることを明らかにしている。セミール・ゼキは、あまり感情については述べていないが、美術を定義して、「美術は恒常的なものの追求であり、その過程において画家は多くのものを捨て去り、本質的なものを選択していくので、美術は視覚脳の機能の延長にあたる」とする。認識に関して、プラトンのイデア的な「恒常的なもの」を追求するが、イデアと仮の姿との二元論から離れ、恒常的なものは、脳内に蓄積された過去経験であり、本質的なものである、とする興味深い指摘をしている。

美術は、脳に蓄積された経験の表出である。そこから受ける感動、感情も、またその人の過去経験の蓄積になるのだろうか?過去との照合を元に、モノを知覚し、その後好き嫌いなどの感情判断がでてくるのだろうか。社会学の「類同性」という概念は、過去蓄積との照合後、感情が動くことを述べている。ゼキは、フェルメールを例にとり、作品の情景が何通りもの物語を語りかけている「曖昧さ」が、多くの人の経験にシンクロし、「確かさ」になると述べる。

ある絵を見たときの「うっ」という迫力、圧迫感、脳のもやもや感は、絵に展開される曖昧さに基づいているとするゼキ理論に基づけば、抽象絵画は、あらゆる人に受け入れられる可能性がある。

ローカル グローバル パーソナル

Charactors2 パリのマーケティング大家カプフェレの著作、「ブランドマーケティングの再創造」に、「ローカルに考え、グローバルに行動する」という一句がある。サーチエコノミー(ザ サーチ グーグルが世界を変える、ジョン・バッテル)な現在、ローカルなメーカー(有形無形に関わらず)は、グローバルな市場進出のチャンスである。サーチエコノミー上でも、土地は動かせない。ローカルオリジナルは、オンリーな商品、世界市場で勝負する時期。

インターネットにまつわる社会変革の予想は、必ず実現する。ケータイ、ゲーム、マネー、音楽、ニュース、など数年前の未来は、数年早く現実になるのが実感だ。なぜか?ブロードバンドインフラの整備が急ピッチで進んだからである。VAN、キャプテンなどが普及しなかったインフラが今はある。これからは、動画、映像の時代が予想より早く来る。

インターネットバブルの1999年、アメリカのビジネススクールでは、E-Commerceの授業が人気だった。僕も授業を取ったが、今から考えれば単に、ブログを作る程度のモノだった。その頃のEコマースのアイデアは、新人歌手、作家を売り出すというアグリゲーター(Agregator)という概念が主だった。現実には、一般ユーザーが、サイトに辿り着けないので、失敗に終わる。そこで、Yahoo!などの人的ポータルサイトのアイデアが主流になる。日本でも2004年頃までは、ネット系ベンチャー起業の多くが、何かのポータルをやる、というのだった。

現在は、サーチ・エコノミーである。5年前からポータルは一つでいいのでは?という考えは提示されていた。ユーザーは、Yahoo!以外のポータルにアクセスするのだろうか、という疑問だ。グーグルは、検索(誰も気にとめていなかった・・・)で、ヤフーを抜きポータルになってしまった。サーチ・エコノミーでは、自社サイトへ客を誘導することすら、古くなりつつある。CGM(日本流呼称)、あるいは楽天に出店しなくても、検索されればいい。

日本は500兆円の大きな市場だけれど、60億人のうち1億人。英語表現を加えれば、どれだけチャンスが増えるのか。中国人もネットビジネスでは、全て英語で事足りる。アメリカで流行ってるものを輸入して、国内で儲ける商売より、日本のモノを輸出したほうが、はるかに刺激的。

水墨画=日本オリジナル、というマーケティング。海外の人に、どう見られているのか?どんな技法が受けるのか?自分で思ってるのと大分違う。水墨画も、何をいい作品と呼ぶのか、体系作りをしてみる。

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何故ヒトは絵を描くのか・反響・壁の向こう側

Rainwindow ヒトはなぜ絵を描くのか?考えると、現代の錯覚に気づくので面白い。

ちょうど同じタイトルの本がある。(中原祐介:フィルムアート社)現存する最も古い絵は洞窟に残されている。これも、今残っているのが洞窟にしかないから、なぜヒトは洞窟で絵を描き始めたのだろう、という疑問にスリ替わっている。土の上、砂に描いた線描は残らない。だから、質問は、「洞窟に書かれた絵はどんな意味を持つのか?」あるいは、「何故、暗闇に絵を描いたのか?」としたほうが、気が楽だ。

昔のことを推測するとき、古代人のほうが現代より、技術、知識、哲学、精神が幼稚である。という前提に捕われがちだ。水墨画も、色彩画の前に白黒の墨絵があって、次に色つきになると、つい思ってしまう。中原が指摘する捕われがちな前提は、「言葉、文字の前に絵がある」、「新しいヒトのほうが優れている」、「視覚表現のみに頼りがち」の3点である。

片山一道との対談で、絵は実用的な、恐らく何かとのコミュニケーション、効用をもっていた。それが、文字が生まれてから、審美的な意識が生まれてきたと述べる。一例として、イースター島のロンゴロンゴ文字、いまだに解明できないこの文字を、片山は、絵だからではないかと、指摘している。私はここで、玄侑宗久の「現代語訳:般若心教」が紹介する絵心教、を思い出した。釜を逆さまに描いて、「摩訶」と読ませるものだ。1万年後、この絵文字が発見されても、解読不能な文字となるだろう。何故なら、文字ではなく絵だからである。

視覚的な表現に頼りがち、絵だけに注目するのでなく、額縁も、構造造型でもない洞窟の暗闇に、繰り返し描かれていることを含め考えるべきであるという。中原は、木村重信との対談で、洞窟画を「どこ」に描いたか、が重要であると指摘し、暗闇に何百年の時を隔て、同じ場所に重ねて描かれた洞窟画に、重ねて描かれる壁の向こう側へのメッセージを読み取る。ベルリンの壁に書かれたラクガキ、同じ場所のシルシ。洞窟画は、反響の大きな場所に描かれているという、イゴール・ルズニコフ、ミシェル・ドヴォワの研究も紹介している。

中原は、なぜ洞窟画が描かれたのかについて、猟の占呪、創造主へのメッセージ、だと一応結論づけている。壁の向こうへの存在、暗闇の存在感、現代でも失われている感受性を豊かに持っての推測は、独創性を育む。

私が思うに、洞窟の明るいところに生活していたら、洞窟の奥深い暗い闇は恐いと思う。何かが湧き上がってくる恐れ。外から攻められたら、暗い闇に逃げ込まなくてはならないし、入り口を守っていて、中から湧き上がってきたらどうしようと思う。マレーシアのスマッ・ブリは、鍾乳洞には、「ワン」という生き物がいて、人を引きずりこむと信じられている。(口蔵幸雄、吹矢と精霊、東京大学出版会)。ワンは壁の中にいるけれど、洞窟画は、壁の向こう側からの侵入者への歯止めのお札じゃないかと思う。安心感のための儀式が行われていただろうし、反響がいい場所は、その奥深いところから生活の明るい場所に、音が聞こえるためではなかったか。

洞窟画を基に、何故ヒトは絵を描くのか?という問いには、迫ることはできなかったが、少しは思考の足しにはなったのではないか。

岩田誠は、人間は長期記憶を基に作業記憶に忠実に描く(見る脳・描く脳 絵画のニューロサイエンス)、と述べる。

身体知・全体性・イノベーション

Photo_5_1 頭脳、意思、知力、キリスト教的、西欧的分析論法は、身体、天候、自然にはかなわない。分析、マーケティングは過去事例であって、イノベーションは、狂気、勘、思いつき、が推進する。部分の総和以上の突然変異、の第六勘が、物事の発展を促す。

新規事業会議は、リスクを列挙するのが、発言者の役割みたいになってしまう。昔のハーバードビジネスレビュー掲載の論文に、会議で否定的な意見は、知的に見えるので、人は会議で否定的な意見を述べやすい、というのがあった。西洋的な、分解、分析、からの意見は、危ない新規事業に対して、否定的になってしまう。ソニーは、モルモットといわれながら需要を喚起した。アップル「iポッド」もしかり。サイは投げられた、ルビコンを渡ったシーザーは、決断を悔やまない。正月、日経新聞のインタビューに、塩野七生は、男は勝負をすべし、と語っていた。テレビでは、日本ハムファイターズの新庄選手が、「最初にやる勇気をわかってほしい」と言っていた。洋の東西を問わず、イノベーションは、理論の積み重ねで発生するのではないだろう。

「やってみる」ことが好きな人種と嫌いな人種がいる。どっちでもいいが、困るのは、嫌いな人種は、やってみる人種への批判をすることだ。やってみる人種は、他人への興味はあまりないから、あまり気づかない。真のイノベーションに必要な人種は、やってみる人々だと思うけれど。

現代マーケティングは、いい商品がズラリと揃った中からいかに自分の作品を買ってくれるかという「場面の開拓」にシフトしている。アートのお客様は、お金持ちなのか。大衆マーケットを相手にしたい。そうすると、水墨画も実際の勝負は、自分のファンをどう開拓していくかにかかっているのではないか。                                   

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