アートと権威 保護行政と社会性、貧乏

視聴率?全く気にしてない!というプロデューサーの談話。よく聞く話だ。デキの悪い作品でも視聴率がよければいい番組と言われる、から・・・という言葉がたいてい続く。

作品の善し悪しは、お客さんが決めるのではないか?自分で今イチでも、人気がある作品がある。お客さんの動向を気にしながら、作品を生み出すのが、創作活動の醍醐味でないか。テレビ放送は強力な売り場、自ら売る必要がない。

テレビを批判する番組で、漫才グループの爆笑問題が「じゃあ自分で作ってみろよ」と言ってるのを見た。例えば、陶器を作る職人が、作品に文句をつける流通問屋に「そんなに言うなら、自分で作れよ」なんて言うだろうか?第二日テレ、電波少年と同じT部長が作ってるのに、なぜ見る人が少ないのか?売り場の立地に違いだろう。テレビの恵まれた利点は利用すべきだが、そのことを忘れてはいけない。

なにごとも、ギョーカイという世界がある。この世の中、業界の評価、世間体を気にするが、お金を落としてくれる本当のお客さんに目が向いてないことが、よくある。先日見に行った「舞楽」の公演、買い求めたパンフレットの最後にこんなようなことが書いてあった、「舞楽について、詳しくは述べない。見たままを感じて欲しい」 見てもよく分からなかったから、パンフレットを買ったのだ。お客様が神様でなく、伝統芸を修練しているギョーカイ内の自分達が神様になっている。

国宝、文化庁助成金コンサート、スシポリス、放送など、行政で保護しなければ生き残れないものを、文化と言えるのだろうか。文化は社会の鏡。鏡は、直接対象物を映す。アートは、国に権威づけされるより、個々のお客さんとの対話で存在したほうが面白い。人間国宝の方は、尊敬するけれど、公演に行くかといったら別問題。自分の財布は、自分が欲しいアートに使いたい。国から権威づけのないポップスターと歌舞伎の師匠だったら、ポップスターのほうが偉いのではないか。

お客さんと接点がなく、本来役割を失っている文化を保護すると、ギョーカイ内だけの論理で生きのびてしまう人種が現れる。ハンス・アビングは、「なぜアーティストは貧乏なのか;p.232」で「アーティストへの助成は、アーティストの数を増やし、収入を低くし、貧困を助長する」と述べている。道路公団、銀行、建設業界への保護行政で、「本来退場するはずの会社が生き延びる」という議論はよく聞く。文化にもあてはまる。

とある講演会で、ourplanetTVの社長が、現在のネット世界は、テレビ草創期にみんなが手探りで工夫を重ねていた時代とたぶん同じ雰囲気だろう、と言っていた。現在のテレビ局は、結局、華やかさ、体制維持などの主張ばかりでつまらない。

3月24日の稲本響と武田双雲のコラボライブ、武田がお客さんに筆でリクエストを書かせ、即興で稲本が弾く、という試みをしていた。自立したアート、社会性のあるアーティスト活動でいいなぁと思う。ライブ終了後、クラシック業界の人は、「あそこの運指がダルってたね」「あのフレーズは古典からだ」と言っていた。。。ギョーカイ内の評価はこうなるけれど、「いいねぇ」とお客さんの評価が勝るのではないか。

売れた本、曲、絵、映画、思想が、今スタンダードとして残っている。アートも勝者の歴史だ。御用絵師であろうと、草双紙であろうと、誰か対象者がいて初めて存在する。クリエイティブな修行は自己鍛錬であり、お客さんには関係ない。アートマーケティングは、まず、作品の出来映えを自己基準に置かない処から始めたい。

水墨画南天棒模写:▼をクリックすると動画が始まります

にほんブログ村 ベンチャーブログ ベンチャー社長へ

「アートと権威 保護行政と社会性、貧乏」への2件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。