「水墨画とは」カテゴリーアーカイブ

滲み エンボス 立体感

2 水墨画がインクドローイングと違う点は、滲みである以前述べたように、滲みを水墨画の特徴とするのは、矢代幸雄「水墨画」のアイデアだ。一筆の濃淡で、立体感を出す技法は、水墨画の教室で習った。その水墨画の技法は、宗達の「いんげん」に既に表れている。没骨法というのか(島尾新:水墨画を語らう)

試しに、水墨画をエンボス処理すると、元の陰影で立体的に見える。Ron Hui教授の水墨画3Dアニメーション「Ode to the Summer」

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模写・水墨画の歴史・インクドローイング


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水墨画発見(山下裕二編、平凡社)を参考に、昔の水墨画を模写した。よく水墨画評論にある「この線が気持ちいい」というのは何故か、を描いて体験してみる。絵は、パーツごとの位置関係の積み重ねだと何かの本で読んだことがある。模写していてわかったのは、昔の水墨画は、部分の積み重ねでなく、全体の調和で成り立っていることだ。部分の集合が全体にならない、という命題がまた当てはまる。

いくつかの線が視線の方向性を援助し、画題がどこにあるかを教える役目をする。人(らしきものを含む)を描くとき一番重要な線は、着物の襟首、前のあわせの線である。次ぎが、肩のライン。あとは細部、細かく描いても省略しても、好きに描けばよい。

水墨画の歴史、はじまりは、文章描くのに飽きたときの落書きみたいなものではないか?海外のインクドローイング(ink drawing)は、サインペンで描く線描アートだ。やり直しは、墨絵同様きかない。ルーブル美術館にも、インクドローイングは所蔵されてないのではないか。アメリカでは、グラフィティ・アート、バスキア、キース・ヘリングが有名だけど。

外国の人に水墨画を見せると、必ず、筆、インクと紙の種類をきいてくる。水墨画というジャンルが芸大にはなく、なんとなく権威づけがない、やり直しがきかない、巷間聞かれる水墨画についての話は、インクドローイングと全く同じ。

国立博物館に行って年代順に展示を見てると、色彩豊かな絵巻物なんかの次に、いきなり白黒の水墨画が飾られ始めるので、はじめて写真、テレビや映画と違う発展の歴史なんだと気づく。カラーの時代に、白黒で表現する人は、変わったこだわりの人じゃないか。昔も同じではないだろうか。あるいは、現代のインクアーティストのような、権威的画壇の外にいる人たち。わざわざ白黒を選ぶか、白黒でしか描けない、身近に墨がある人たち。

お坊さんが描く水墨画、たくさん残されている。仏教が全体性を追求する哲学ならば、絵もそれに影響されてるだろう。線をとりあえず描いて、なんとなく見えるという感じの絵は、まさに全体性の発露である。画壇に水墨画ジャンルがないのは、副業的な存在、西洋絵画理論と違うから(推論)、という理由か。

人物を描くときは、まず顔の輪郭のあたりをつけて、着物の襟、肩の線から始めたはずである。昔ノートに書いた似顔絵と同じ。絵を見て、気持ちよく感じる線は、その描き始めの線である。そこに迷いがないなら、見ていて気持ちいい。

美術評論・水墨画 滝の流れ

Waterfall 最古の絵はラスコーショーベ(Cahuvet)であり、最古の文字は亀甲文字か。キリスト今日の絵画は教義を伝えるものであり、白隠の水墨画もそうだ。(山下裕二:水墨画発見)最古の絵は暗闇に描かれ、文字は祝器に入れられた。(ヒトはなぜ絵を描くのか:中原祐介、白川静:漢字百話)絵、文字は、神とのコミュニケーションのための道具であった、というのが学問の知見だ。 

現代は文字文化だ。絵も文字、ロジック、文脈で説明する。いや必要がある(村上隆:芸術起業論)。図象学は、絵をロジックで解明する。風水は、実利、現象で説明する。絵を見る視線が、店の外に向かうようだと、自然と店が盛り上がらない。ニューロサイエンスのような、この絵を見たとき血流がどこに流れているか、といった解明が絵画批評の終着点だ。

滝が、右に流れるか左に流れるか、絵を掛ける場所による。美術評論は、ある絵の滝の描写が、気持ちよく感じるのは何故か?を、解明する必要がある。その解明を基に、作り手側はこういうことを伝えたいからこう描くという手法の学習が必要だ。

なぜ人は絵を描くのか?「赤ん坊は絵を描いて何かを伝えようとするだろう。その衝動が芸術だ」とある人が言っていたけど、自分の何かを伝えたいため、、、それをピュアに押し出すのは、危険すぎる。。。人のことなんて普通興味がない。作品を市場が受け入れ、批評が解明し、それがノウハウになり、クリエイターが次の作品を作るというのが、アートの発展である。

水墨画・反復・植物の知覚

Clouddragon 反復・繰返は、脳で考えることをやめさせる。ということは、脳で考えない知覚があるということだろうか?

例えば、植物は情報を集約する脳はないが、葉の細胞全体が、危険回避行動をとるという。害虫の天敵が好きな匂いを出し、天敵を自らの周りに侍らせ自身の害虫が近づくのを防いだりするそうだ(永井俊哉ドットコム「植物化型情報システムの時代」)以前見た、藤枝守の「植物文様」は、そうした植物の動きを電気的に捉え、音楽にしていたのだ。その音楽は・・・以前述べたとおり心地よかった。その心地よさは、記憶にあるものを思い出したのではなく、ただ心地よかった。

植物の知覚を、水墨画で再現できるか?間接的であるが、脳で考えない手法を考えれば、一歩近づけるのではないか?同じ模様を繰り返してはどうだろうか?龍を描くときの雲、植物の茎など、ほとんど手くせで描くモチーフがある。雲や、複雑な茎などは、個々のつながりを追っていくうちに面倒くさくなって、ボーとする。心地よさ、ひらめきがやってくる瞬間があるときと無いときがあるが・・・

水墨画が禅画の系統を引いているのも、ちょっと理解不能な公問のような、絵を見ているうちに面倒になってボーとする瞬間の作用に、禅のお坊さんたちが気づいていたからに違いない。それを現代のモチーフにあわせて描ければ、新たな世界が広がる。

よしもと:笑い・水墨画・アート方法論

Zafradafamilia 吉本興業の広報を仕切る竹中執行役員の「爆笑王になるには」という話を聞いた。明石家さんまが「サン様」をやってウケるのは本家「ヨン様」がいるからだ。

笑いは、変換不可能な共有「データ」(ヨン様のマフラー、髪型など)を、さんまが演じるというアイデア=「情報」に置換えることで、発生するという。だから、NSCでは、漫才のネタになるべく誰もが知っている話題、阪神の試合結果を導入部分にしろと教えるらしい。

共有体験を違ったアングルで解釈する処に意外性が生まれる。ポイントは、共有体験と切り口の笑いのマーケティング、方法論の確立である。これは、水墨画にも当てはまる考え方である。

独りよがりな芸・作品は、共有体験を踏まえていないものだろう。引きこもりなど、人間でも今の世の中と体験を共有できない人がいる。水墨画・伝統芸能も、アートの引きこもりなら終わりだ。

共有体験とアングル、水墨画、ビジネス、どの分野でも通用する方法論である。

三遊亭竜楽出版記念会・落語・水墨画・省略

Tibetpeople 落語、難しいという若者がいる。言葉がわからないので笑えない。篠笛福原徹のライブ、横に座っていた年配の方は「来週は、にっかん飛切寄席なのよ・・・」なんて云っていた。既に伝統芸能という切り口でのファン層。

寄席で、未だにハンカチ王子のマクラをやる噺し家がいる。テレビと寄席、テレビで形成される世の中と寄席現場の、スピード感は埋めようがない。

現実と切り離された化石。「志ん生のDVD5巻セット毎晩聴いてます・・・」嘘だろう。あのべらんめえ調で笑える人は今いない。「あの噺知ってる?」知識ストックが話題になる。知らないと仲間に入れない。落語の話で友達が増えない。

三遊亭竜楽の話は、しかし面白い。「からすカア~で夜が明ける」余分な説明を省いて生まれるリズム感。セロトニンが分泌され、恍惣感が増すのか。

芸の研讃、請進・・・よく聴く言葉。古典落語を上手くやるためでなく、生きた人を爆笑させる目的であって欲しい。

水墨画も、墨の濃淡の出方が・・・などマニアックな評論は、マニアの世界で。世界に受けるアートを水墨画でやってみる。

水墨画とセロトニン・解脱・快感

Sumiesuibokugawater 同じ文芸春秋12月号で、柳澤桂子が、セロトニン(抑制性の神経伝達物質)の分泌が、悟りの状態へ人間を導くと示唆している。ガムを噛むなど、単純なリズムが、強いストレスに打ち勝つため、セロトニンの分泌を促進し、悟りに至るのだという。玄侑は、古代インドでは「あ、う、お」の母音を重要視され、中国でも、意訳でなく音をそのまま残したままの訳で経典を残したという。

水墨画で、リズム感を表現できるだろうか?今bunkamuraで開催中の、「スーパーエッシャー展」にエッシャーが、バッハの曲を図で示した試みが展示されている。角度が音の長さ、距離が音の距離を表すモノだった。

今の音律は、キリスト教の正比率の影響で、音間が等間隔にできている。しかし、オクターブを超えると自己矛盾をはらんでくることが昔から指摘されている。一方、水墨画では、木々の枝ぶり、実のつき具合、鳥の配置、など等間隔のモノは全て廃せられる。全体構図からして、紙の中心でなく端っこに描くのだ。恐らく等間隔ほど美しいという意識を持っている現代の教育を受けてきた人間からみると、このアシンメトリーな構図は、あえて意識しないと描けない。アシンメトリーこそが、リズム感を生んでいるのだが。。

例えばこの作品は、等間隔を美しいと思う現代的美意識から抜け出せないでいた時の作品である。様々な西洋美術のシャワーを浴び、水墨画を描くとこうなるという作品の典型だ。この、等間隔な岩の羅列から、ほとばしる水流を感じることはあるのか?一見、ポスター風なこの作品は、西洋キリスト教文化を吸収している若者には、アレルギーはないだろう。しかし、自然に親しんでいる者ほど、わかってない、となる。

そのストレスを、悟りに変化させる手段はないのか?水の流路に、変化を付ければよいのではないか。一見、見るとストレスであるが、眼球の動きにリズム感を生み出し、セロトニンを分泌させ、快感につなげる。悟りに至る絵の方法論である。

Suibokugaconstruction Suibokugasumieconposition1 左と右、動きを感じるのはどっちか?

無の存在:グーグルと悟り・空・瞑想

Laosdoggirl水墨画は無を描く。文芸春秋12月号の、柳澤桂子と玄侑宗久の悟り、空に関する対談が興味深い。1)悟りに至るストレス、リズム、セントロンの役割、2)素粒子物理学が見る全体統合の世界、3)瞑想時の脳内の血流、3)神に関する記憶の遺伝。特に3)、ユージン・ダキリによれば、瞑想時、自分が何処に向いているかを認識する脳の部位(上頭頂葉後部)への血流が止まるという。玄侑は、あらゆる現象が、主体と関係性で生じる出来事とされた、と述べている。科学は分析するものではなく、物事を紐付け、ハイパーリンクさせていく方向に向かっている。グーグルが本気で目指すのもそこか。

白川静は梅原猛との対談集「呪の思想、平凡社」で、「存在」という字をその成立から見ると、神聖化された土地と人という意味になる、と述べている。柳澤の、神は脳に存在する、遺伝する、という言葉を踏まえると、無の存在は、全体となり、悟りとなる。無は、社会という横軸、時間という縦軸で囲われる共有記憶であり、墨は、記憶を呼び起こすトランスゲートである。

Sumi-e as Interior:水墨画の闘い

299249324_30ef124476_m水墨画を壁に。

長細いスペースが普通の部屋にあるだろうか?部屋に帰って、絵をボーと眺めるのと、テレビをボーと見るのとどちらが癒されるか?

水墨画は油絵と闘ってるのではない。。忙しい現代人の、時間とスペースを、テレビ、ケータイ、ゲーム、本、YouTube、Gyao、ブログ、2chと闘ってるのだ。

Sumi-e as interior:

What is your pass time favorites? You prefer seeing paintings to surfing internet? Ink painting’s enemy is not oil paintings. In order to take on "time and space" of young slickers, it fights agaist TV game, books, YouTube, chatting.         

水墨画精神論

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輪郭の無い絵画 

レオナルドダヴィンチ、モナリザには、輪郭がない。

なぜか?

万物は流転するという彼の思想に答えがある。

水は透明で、それ自体に形がない。ハコの形に合わせながら、変化していく。鴨長明、方丈記の「行く河の水は絶えずして、しかも本の水にあらず」である。

モナリザの輪郭は、周囲の川に溶け込んでいく。

もし、ダビンチが描いたものが、水であり、水が流転の隠喩ならば、モナリザそれ自体は水の器である。

絵画はイメージの具象(若桑みどり)という。方丈記の無常観と同じ、「豊かな人間性の基盤の発露(矢代幸雄)」がモナリザにもあろう。

しかし、「豊かな人間性」は得てして現実社会では受け入れられない。ダビンチのゲイセクシャル性、旅、多分野の知識、は人生を豊かにするが、輪郭=壁を飛び越える人間は、帰属すべきコミュニティを持たない難民である。

50ヶ国以上を旅し、文系と理系を勉強した僕は、同じ経験を持つ人を今まで見つけられない。輪郭のない流浪の民である。マージナルな人間を水に喩え、絵画の中で具現化したモナリザに惹かれる人種は、そのような人である。


絵画とは、輪郭・壁とは

絵を描くときに一番輪郭を描きづらい対象は何か?

水である。

水墨画も輪郭を描かない。

いや、描くのもある。雪舟の絵は、現代のマンガのような輪郭線で構成される。しかし、小林忠が、「墨絵の譜(ぺりかん社)」で指摘するように、日本の水墨画は、江戸時代に入り、俵屋宗達のように「面的な線(p.229)」で描くような変化を遂げる。

もうひとつ、小林は、「槐記」から引く「宗達ガ画ハ影坊子ヲウツシ得タルモノナリ」で、宗達がモノを「立体的に写そうとは決してしない」と指摘している。つまり、光琳の杜若屏風のような、村上隆のスーパーフラットのような、浮世絵のような、モノを二次元に簡略化し、表現することに神経を割いているのである。

しかし、ダビンチのスフマートは、三次元的な陰影を表現し、リアルな本物にいかに近づくかの技法であろう。

つまり、「輪郭を廃除する」行為は、一緒でも、日本の水墨画が辿る「簡略化」表現と、ダビンチの目指していた「よりリアル」にという方向は正反対なのである。

僕が水墨画に心動かされたのは、決して日本的、二次元的、簡略化な表現ではない。

現代の水墨画では、一筆で、光、影、形を描き出す手法がある。

宗達以来の「たらしこみ」手法とも違い、一筆で、黒からグレー、無色までを表現する。それは、より立体的にモノを表現しようとする試みである。

二次元的な発展を遂げてきた水墨画の歴史からみると革命的な事件である。

これは、技術的な水墨画の見方であるが、本論では、一筆で黒から無色までを表現する水墨画の精神性について考えてみたい。

現代の水墨画の立体的表現は、よりダビンチのスフマートに近づいているのではないかと考えられる。

水墨画の最後の色、水を紙に摺りこむ部分によって、描かれた対象は、筆に含まれている墨水の滲みで、周りの空間に溶け込んでいく。この滲みの部分こそ、水墨画に惹かれる理由なのである。

ここで滲みの精神性を考えてみる。

滲みは常に変化する水の如く、人為的にコントロールすることはできない。滲みの不確実性は、流転する万物への謙虚さである。

ヘラクレイトスのロゴス、プラトンのイデア、不変の存在、輪郭が滲んでも、不変な実体を表出させようとする試み、それが筆に墨をふくませ、描く水墨画に他ならない。

暈し→宗達になく何故現代にはあるのか?社会的背景の違いをそこから読み解けるか?


滲みの輪郭

水墨画の輪郭は、流転の存在、水の滲みが止まった地点にある。絵画とは認識の再構築であるが、認識の先端である輪郭を自然に委ねる水墨画は、認識しない存在を認識している。

有に対する無でなく、絶対無の存在である。絶対的な存在は、神である。

では水墨画の絶対無は何処に存在するのか?

それは、何も描かない白地の部分=紙である。墨で紙に線を描くことは、存在の表出に他ならない。しかし、水墨画では、何も描かない場所を残すことで、「無」の存在を浮き彫りにする。


滲みの辺境

存在としての「無」。水墨画における「無」とは何か?

情感である。

「無」に詰め込まれた描き手の情感は、真空のゆらぎの如く、見る者の情感に飛び入り、描き手の情感の存在を認識する。「無」は作為であり、意思である。

では、見る者のない作品は、「無」なのか?

それは虚である。

水墨画における「無」とは、見る者があって初めて成立する概念である。

虚は自然界に万遍なく存在する。

水墨画で描く滝は、画家が紙に表現しなくても、存在している。誰も見ない絵は、この滝のようなものである。虚は自然であり、意識の枠外にある。矢代幸雄が言うところの客観性が主観性を獲得する瞬間である。


客観的主観の精神性

「無」は「有でない」概念と対立するものではない。

しかし、描き手の「無」と見る側の「無」が一致するわけではない。

「無」は無限の存在である。

描き手が理想とする「無」はあるのか?それは何故水墨画を描くのかというテーマに深く関連している。

水墨画の描き手は、視覚で意識できる存在と、物質では存在しない「無」を一枚の作品に同居させることにより、有と「無」を見る側に認識させ、万物の世界を表現しているのだ。

禅画に連なる水墨画の作品は、考えすぎると、最後は筆を省きすぎ、結局何も描かないのが、最高の絵だ、なんて極端になる。

白地の紙の部分を、不変のイデア、描こうとするものを見せかけと過程する。

筆の動きは自己の意識の現われである。そして、水の滲みは自然である。

リアルさを追求したダビンチと省筆の水墨画は、滲みによって統合される。

柳澤桂子によれば、科学は統合に向かっているという。最先端の素粒子物理学者は、神を見ているらしい。