イデア 水墨画滲みと西洋絵画遠近法

Waterjump グチャグチャと描いた水墨画が、何かに見えるのは、脳が過去記憶から似たものを取り出すからだ。左甚五郎のぬけ雀が、ある朝飛び出すかどうか、見る人の経験に基づく。水墨画の紅葉が、一瞬紅く見えるのも、まず形を紅葉と認識し、その形をしたものが紅かった記憶があるので、一瞬紅く見えるのだろう。紅葉と認識されなければ、紅くもなく、また黄色の紅葉を思い出した人は、黄色く見えるだろう。重要なのは、モノは目が見ているのではなく、脳が認識するもので、ゆえに人それぞれ見え方が違うことを意識することだ。

アートでは、描いたものが見た人の脳に何を呼び起こすか、を考えて描く必要がある。ゼキは、プラトンなどギリシャの哲学者は、紙の上にある絵は、イデアを写した仮の姿として、否定的に捕らえられたが、イデア自体も描き手の中にある「恒常的なもの」なものだと述べた。恒常的なものは、人の経験に左右される。視点を定め描く遠近法は、西洋絵画の、イデアを万人の恒常的なものにしようとした試みではないか。

一方、グチャグチャに描く水墨画、滲んだままにする墨絵は、モノをある構図で捕らえない東洋的な本質の表現である。分析的な西洋哲学思想でなく、捕らえ方を人それぞれに委ねる、全体的な思考の提示である。