何故ヒトは絵を描くのか・反響・壁の向こう側

Rainwindow ヒトはなぜ絵を描くのか?考えると、現代の錯覚に気づくので面白い。

ちょうど同じタイトルの本がある。(中原祐介:フィルムアート社)現存する最も古い絵は洞窟に残されている。これも、今残っているのが洞窟にしかないから、なぜヒトは洞窟で絵を描き始めたのだろう、という疑問にスリ替わっている。土の上、砂に描いた線描は残らない。だから、質問は、「洞窟に書かれた絵はどんな意味を持つのか?」あるいは、「何故、暗闇に絵を描いたのか?」としたほうが、気が楽だ。

昔のことを推測するとき、古代人のほうが現代より、技術、知識、哲学、精神が幼稚である。という前提に捕われがちだ。水墨画も、色彩画の前に白黒の墨絵があって、次に色つきになると、つい思ってしまう。中原が指摘する捕われがちな前提は、「言葉、文字の前に絵がある」、「新しいヒトのほうが優れている」、「視覚表現のみに頼りがち」の3点である。

片山一道との対談で、絵は実用的な、恐らく何かとのコミュニケーション、効用をもっていた。それが、文字が生まれてから、審美的な意識が生まれてきたと述べる。一例として、イースター島のロンゴロンゴ文字、いまだに解明できないこの文字を、片山は、絵だからではないかと、指摘している。私はここで、玄侑宗久の「現代語訳:般若心教」が紹介する絵心教、を思い出した。釜を逆さまに描いて、「摩訶」と読ませるものだ。1万年後、この絵文字が発見されても、解読不能な文字となるだろう。何故なら、文字ではなく絵だからである。

視覚的な表現に頼りがち、絵だけに注目するのでなく、額縁も、構造造型でもない洞窟の暗闇に、繰り返し描かれていることを含め考えるべきであるという。中原は、木村重信との対談で、洞窟画を「どこ」に描いたか、が重要であると指摘し、暗闇に何百年の時を隔て、同じ場所に重ねて描かれた洞窟画に、重ねて描かれる壁の向こう側へのメッセージを読み取る。ベルリンの壁に書かれたラクガキ、同じ場所のシルシ。洞窟画は、反響の大きな場所に描かれているという、イゴール・ルズニコフ、ミシェル・ドヴォワの研究も紹介している。

中原は、なぜ洞窟画が描かれたのかについて、猟の占呪、創造主へのメッセージ、だと一応結論づけている。壁の向こうへの存在、暗闇の存在感、現代でも失われている感受性を豊かに持っての推測は、独創性を育む。

私が思うに、洞窟の明るいところに生活していたら、洞窟の奥深い暗い闇は恐いと思う。何かが湧き上がってくる恐れ。外から攻められたら、暗い闇に逃げ込まなくてはならないし、入り口を守っていて、中から湧き上がってきたらどうしようと思う。マレーシアのスマッ・ブリは、鍾乳洞には、「ワン」という生き物がいて、人を引きずりこむと信じられている。(口蔵幸雄、吹矢と精霊、東京大学出版会)。ワンは壁の中にいるけれど、洞窟画は、壁の向こう側からの侵入者への歯止めのお札じゃないかと思う。安心感のための儀式が行われていただろうし、反響がいい場所は、その奥深いところから生活の明るい場所に、音が聞こえるためではなかったか。

洞窟画を基に、何故ヒトは絵を描くのか?という問いには、迫ることはできなかったが、少しは思考の足しにはなったのではないか。

岩田誠は、人間は長期記憶を基に作業記憶に忠実に描く(見る脳・描く脳 絵画のニューロサイエンス)、と述べる。

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