全体の抽象・分析の抽象 見立てと分解

Abstract この写真何に見えるだろうか?カビ?魚の群れ?種?何に見るかは、人それぞれの自由だ。水墨画は、画題の精神性という側面から解説されることが多い。自分の心のうちを具象を使って表すという。しかし、この解釈の仕方って、宗教画を研究するイコン学?の影響を受けすぎではないだろうか?僕の仮説は、ただ写実に自然を写し取る絵にすぎない、というものだ。

歴代名画記(大抵水墨画評論の古い本は、この本を参考にしてる)に、「吹雲」という話が載っている。墨を口に含んで、吹き付ける。それを絵と称す。あるいは、王默という人が、「酔って髪に墨をつけて描く」という話が載っている。落語にも、左甚五郎が描いたグチャグチャとした何かが、雀となって飛び立つ、抜け雀という話がある。

このような絵画の考え方、分析好きな西洋では発展しない考え方だろう。プラトンは、絵描きを実態と本質の間を形にしてしまうとして、嫌っていたという。より本物ぽく、動きをデッサンし、色を描く。色は光である。本質に近づくための文脈が、印象派を産み、キュービズムを生んだ。西洋アートの文脈で、抽象を描くとイッちゃう作品になる。植物、生物の生態、ファーブル昆虫記が突き進むと、もう何かわからない原子、電子の世界での議論と同じである。モンドリアンの樹、ピカソの顔の絵を見て、子供が美しいと思うだろうか?僕は少なくとも綺麗だとは思わなかった。それは、人間の脳で作られた人工の世界だからであろう。

一方、適当に吹き付けた模様に何かを見る。森を見て、西洋的ロジック分析思考を働かすと、フラクタルになる。全体を見ると、例えば蛙森のような呼び名が生まれる。水墨画の抽象、村上隆述べるところの西洋アートの文脈に載せるのか、東洋の伝統を意識するのか、アートのマーケティングで考えるべきところである。

全体と部分という話は、どうしても乗り越えなければならない課題だ。しかし、こんなことを考えるのが何の役にたつのか?多数決、民意、人気、検索順位、現代社会の行動規範は、個別の積重ねが全体の総和、意思に等しくなるという概念に基づいている。しかし、実感として、そうじゃないこともあるんではないかと感じることが多い。例えば、グーグルだって検索1位のサイトが、自分の見たいサイトでないことは多い。それに、巷では世界で一つの花、個性を強調しているのに、議会の意思決定は多数決なのは、矛盾していないか。合成の誤膠を、アートで表現できるなら、それは、全体性、調和という概念のプロモーションに有効だと考える。

分析、分解を突き詰めた結果、あまり美しくない図になるのと、雲の形に美しさ、違う概念を導入するのと、どちらが見ていて心地よいだろうか?後者であろう。自然の形状から美を取り出す取り組み、「見立て」。水墨画の抽象画は、分解分析の抽象ではなく、全体、見立ての抽象、西洋アートに対するは新しい概念軸ではないだろうか?

さて、水墨画の精神性、題材、構図に精神性を求めるのは無理があるだろう。自然を紙の上でただ表現した、にすぎないと思う。鳥を描いて、鳥に見える。虚空を見つめるのでなく、餌を探す、他の鳥を見ている、だけだと思う。あるいは、紙上に自分が空を見て、見えたものを紙に表現したのではないかと考える。水墨画の抽象画、分析でない絵画としての水墨画を作っていくべきだ。

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「全体の抽象・分析の抽象 見立てと分解」への1件のフィードバック

  1. hahaha, i have no idea what any of this says cause i can't read japanese and i only know how to say a few words, but i ended up here from a link on youtube, and i decided to leave you a comment here too. i think that your sumi-e work is wonderful and it is an insperation to me, i am learning sumi-e myself and it is always helpful to find someone who knows what they are doing to study. good luck to you! XD

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