水墨画 水仙

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人形町界隈は、花がたくさん咲いています。いつもいろいろな花が咲いているのですが、この冬一番早く咲いたのが、水仙でした。

というか、水仙、名前だけ知っていて実物初めてみました・・・hhh

く見ると、ひとつの茎に6つ花が咲いてます。白い花の真ん中に黄色にこれも花びらなんすかね。

白い花は、水墨画にとって大問題ス。墨を塗っては、白く、薄い花びらに見えないし、かといって線描くのもあまり面白くない。

水仙は、3週間くらい咲いてましたか。最初は、花びらがあまり開いておらず、しっかりピンッとしてます。それがダンダン開き気味に、花も皺が寄ってきます。

開いてる花を描けば、それを見た人は、老成、ベテラン、時の流れといったものを感じ、閉じてる花には、未来、若さ、瑞々しさを感じるんじゃないか、という推測のもと花を描くと面白いです。

水仙

墨で薄い花びら、白い色、要はティッシュペーパーをどう描くか、結局花びらの先っぽだけを描いて、中抜きしてみました。それと黄色い部分は、真っ黒く、回りの花びらの白をコントラストで目立たせるように。

花びらは、筆を寝かせます。自分で十分と思ってる以上に寝かせるのがコツかも。筆が紙について、一呼吸おいて、筆を払います。真ん中は何も描かないで、見る人の想像に任せちゃいましょう。そのために、筆をもう払っちゃう。結構、スピード感をもって。筆を紙につけてひと呼吸、そして素早く払う。薄い質感はあまり出ないかもしれませんが、それは今回は捨てます。

真横から見てる花びらは、筆の側面でサッと。これも中心部まで描かないで

真ん中の黄色い部分は、思いきり黒くして。真横の部分は、稲荷寿司みたいな感じで。斜めの花は、2筆で

葉っぱも、筆を紙と水平になるくらい寝かせて描きます。葉っぱの先は丸めて。

水仙は、会社に行く途中のこんな花壇に咲いてました。身の回りに題材はたくさんあるもんですねぇ

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素朴美の系譜 松濤美術館

南天棒 雲水托鉢双幅の模写

[見れた絵]

白隠 達磨: アイラインを濃く引いているところが、コントラストの参考になります。白隠さんが描いたと言われる絵は、墨が水ぽい。。なので、墨が黒い部分はとくに黒くみえます。ただ、上唇の山型部分も黒く引いてあるのが不思議。なんで髭を濃く描かないで、唇の形を線で黒く描くんでしょうか 

白隠(花園大学白隠学研究所) 福禄寿: コーンヘッドじゃん。自由ですよねぇ。見るたびに(あっ本とかで・・)、型にはまりかけてる自分を救いだしてくれます。絵も仕事も、「型」を築くのはキツいと思うのですが、「型」から解放されるのも難しいですよねぇ。組織の型、伝統の型、ブログ文章の型、過剰適合してしまってると困ります

南天棒 雲水托鉢双幅: これも自由ですよねぇ。

かるかや : 教科書のページに描いた落書きのと同じ、昔の人が描いていた絵をやっぱり見たい。今見れる絵、その解説って、「十五代将軍の持ちもの」だから「凄い」という感じで、公式記録ぽいものを辿ってますよね。だから、昔の絵というと堅苦しいイメージあるけど、この「ユルい」絵展覧会は、なんか気軽でよかった。。「この眼の表現が・・・」とか「笑うでもなく、悲しむでもない。おぉ、あなたは半跏思惟なんとか像(神の雫の第六の使者)」みたいな感じで解説してる人に迫られると、こっちも「うーむ。確かにこの指の表現ただならぬ・・・」みたいに身構えちゃって、どうも疲れるっす。自分の感受性が弱いんすかね。

仙涯 蝦子和尚 : この絵が今回のユル度、イチバン。これは勇気でます。この絵について美術史的価値とか述べるのは難儀な仕事だと思われます。

[いちばんよかった絵]

棟方志功 萬華枝図 : 絵の左半分が文字で埋められていて、「萬華枝」と大きく書かれています。なるほど、こんなに字大きくていいんだぁーって思いました。

カタログ : 1200円安い!矢島新先生の解説によれば、『ユルい絵』とは、「リアリズムのみを目標としない大らかな具象画(p.96)」ということです。絵のことを調べていると必ず出てくる記述に「近代以前、絵画は発注に応える職業的な画家がリアルに描くもので、一般に絵を鑑賞する習慣は一般人にはなかった」という感じのものがあります。どーなんでしょう。やっぱりそうなんでしょうか。。藁ぶき屋根の下に、絵は飾る雰囲気は想像つかんし。その想像も、どこかで見た時代劇の影響かもしれないですし・・・

この展示会では、この『ユルい絵』を「素朴」という表現を使っています。僕が素朴なアートという言葉で思い出すは、南米を放浪していたときよく見かけたインディオアートです。昔のインベーダーゲームのような文様が織り込まれた毛布や、2次元的な絵画たち、大体16世紀とかに作られたものという解説が付けられていました。それを、見ていやぁツマランなぁっと思ったことを覚えています。なんか単純すぎて深みがないっていうんでしょうか・・・

それと比べると、今回の展示会でみた『ユルい』素朴画は、確かに面白かった。なんでかーと考えてみると、おそらく顔に表情があり、手足も動いているからだと思います。インディオアートは素朴でもパターン化がすごくて、あんまり表情が読み取れませんでした。ナスカ絵なんかも、省略の美は感じましたが、ユーモラスな感じはしないです。そこいくと、仙涯の蛭子和尚は、落書きみたいですが、表情があって面白いっ!別にこの絵の価値を堅苦しく述べる必要はないですが、オモロイことはオモシロイ。

洋画で表情があって面白いのはなにかあるか思い浮かべると、交響楽団を描いたやつ(画家名は忘れました)、ブリューゲルの農民生活を描いたものなんかは、オモロイですね。洛中洛外図のようなものって、細かく描かれている人物をジーッと見てしまいます。ブリューゲルや交響楽の絵なんかも、一人一人の表情や体の動きを見てしまいます。僕が、昔の絵でよく見るのは、歩いているとき腕と足の同じ側が出ているかをよく見てしまいます。右足がでているときに右手も前にでてるように描かれてるかどうか。これって現代人と逆ですよね。でも、子供がボールを投げようとすると、右手で投げるときに右足を出したりしますよね。あと、武術では右で打ち込むときは右足が前にでます。

カタログで、矢島先生は、「周辺文化であった日本美術は、自ら原理原則を生み出すことは少なかった(p.129)」と語っています。日本のアートを調べると、どうしてもこの周辺、周縁という言葉にあたります。周辺という言葉には、リアクション、反応、反射という意味が含まれていると思います。身の回りにもいますよね。自分からはなにもしないが、誰かが何かやりだすと反対だけする人とか。営業でも自分からは提案しないが、お客さんの言葉に肯定だけする人とか(これは効果的です)。日本の政治・経済を含めた文化、風土を考えるときには、この周辺、リアクションが大きくのしかかってきます。まー考えても意味ないんだけど・・考えると創作活動には少し意味があります

もうひとつ、自分がいつも気にかかるのが、モンスーン文化の終着点、次はないのかっ・・ということです。シルクロード、貿易風が運んでくる文化、サービスが日本の次にどこに行くのか。島国なので、どこにも行く先がないっ・・・文化を受け入れはするけど、それを伝える先がないという・・まさに周辺の周辺というロケーション。鎖国、ガラパゴス、高度に発展した文化が運び込まれるけれど、それを受け継ぐ場所がない、拡大しない、というのはもうしょうがないんすかねー?

帰りはクレープ屋さんでお茶すました

2006094