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SUMI-E HISTORY

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水墨画の歴史・発祥

昔の水墨画を模写してみる。よく水墨画評論にある「この線が気持ちいい」というのは何故か、を描いて体験してみる。絵は、パーツごとの位置関係の積み重ねだと何かの本で読んだことがある。模写していてわかったのは、昔の水墨画は、部分の積み重ねでなく、全体の調和で成り立っていることだ。部分の集合が全体にならない、という命題がまた当てはまる。

いくつかの線が視線の方向性を援助し、画題がどこにあるかを教える役目をする。人(らしきものを含む)を描くとき一番重要な線は、着物の襟首、前のあわせの線である。次ぎが、肩のライン。あとは細部、細かく描いても省略しても、好きに描けばよい。

水墨画の歴史、はじまりは、文章書くのに飽きたときの落書きみたいなものではないか?海外のインクドローイング(ink drawing)は、サインペンで描く線描アートだ。やり直しは、墨絵同様きかない。ルーブル美術館にも、インクドローイングは所蔵されてないのではないか。アメリカでは、グラフィティ・アート、バスキア、キース・ヘリングが有名だけど。

外国の人に水墨画を見せると、必ず、筆、インクと紙の種類をきいてくる。水墨画というジャンルが芸大にはなく、なんとなく権威づけがない、やり直しがきかない、巷間聞かれる水墨画についての話は、インクドローイングと全く同じ。

国立博物館に行って年代順に展示を見てると、色彩豊かな絵巻物なんかの次に、いきなり白黒の水墨画が飾られ始めるので、はじめて写真、テレビや映画と違う発展の歴史なんだと気づく。カラーの時代に、白黒で表現する人は、変わったこだわりの人じゃないか。昔も同じではないだろうか。あるいは、現代のインクアーティストのような、権威的画壇の外にいる人たち。わざわざ白黒を選ぶか、白黒でしか描けない、身近に墨がある人たち。

お坊さんが描く水墨画、たくさん残されている。仏教が全体性を追求する哲学ならば、絵もそれに影響されてるだろう。線をとりあえず描いて、なんとなく見えるという感じの絵は、まさに全体性の発露である。画壇に水墨画ジャンルがないのは、副業的な存在、西洋絵画理論と違うから(推論)、という理由か。

人物を描くときは、まず顔の輪郭のあたりをつけて、着物の襟、肩の線から始めたはずである。昔ノートに書いた似顔絵と同じ。絵を見て、気持ちよく感じる線は、その描き始めの線である。そこに迷いがないなら、見ていて気持ちいい。

輪郭の無い絵画

Nijimi4 レオナルドダヴィンチ、モナリザには、輪郭がない。なぜか?万物は流転するという彼の思想に答えがある。水は透明で、それ自体に形がない。ハコの形に合わせながら、変化していく。鴨長明、方丈記の「行く河の水は絶えずして、しかも本の水にあらず」である。モナリザの輪郭は、周囲の川に溶け込んでいく。もし、ダビンチが描いたものが、水であり、水が流転の隠喩ならば、モナリザそれ自体は水の器である。絵画はイメージの具象(若桑みどり)である。方丈記の無常観と同じ、「豊かな人間性の基盤の発露(矢代幸雄)」がモナリザにもあろう。しかし、「豊かな人間性」は得てして現実社会では受け入れられない。ダビンチのゲイセクシャル性、旅、多分野の知識、は人生を豊かにするが、輪郭=壁を飛び越える人間は、帰属すべきコミュニティを持たない難民である。50ヶ国以上を旅し、文系と理系を勉強した僕は、同じ経験を持つ人を今まで見つけられない。輪郭のない流浪の民である。マージナルな人間を水に喩え、絵画の中で具現化したモナリザに惹かれる人種は、そのような人である。

絵画とは、輪郭・壁とは

絵を描くときに一番輪郭を描きづらい対象は何か?水である。水墨画も輪郭を描かない。いや、描くのもある。雪舟の絵は、現代のマンガのような輪郭線で構成される。しかし、小林忠が、「墨絵の譜(ぺりかん社)」で指摘するように、日本の水墨画は、江戸時代に入り、俵屋宗達のように「面的な線(p.229)」で描くような変化を遂げる。もうひとつ、小林は、「槐記」から引く「宗達ガ画ハ影坊子ヲウツシ得タルモノナリ」で、宗達がモノを「立体的に写そうとは決してしない」と指摘している。つまり、光琳の杜若屏風のような、村上隆のスーパーフラットのような、浮世絵のような、モノを二次元に簡略化し、表現することに神経をさいているのである。しかし、ダビンチのスフマートは、三次元的な陰影を表現し、リアルな本物にいかに近づくかの技法であろう。つまり、「輪郭を廃除する」行為は、一緒でも、日本の水墨画が辿る「簡略化」表現と、ダビンチの目指していた「よりリアル」にという方向は正反対なのである。

僕が水墨画に心動かされたのは、決して日本的、二次元的、簡略化な表現ではない。現代の水墨画では、一筆で、光、影、形を描き出す手法がある。宗達以来の「たらしこみ」手法とも違い、一筆で、黒からグレー、無色までを表現する。それは、より立体的にモノを表現しようとする試みである。二次元的な発展を遂げてきた水墨画の歴史からみると革命的な事件である。これは、技術的な水墨画の見方であるが、本論では、一筆で黒から無色までを表現する水墨画の精神性について考えてみたい。現代の水墨画の立体的表現は、よりダビンチのスフマートに近づいているのではないかと考えられる。水墨画の最後の色、水を紙に摺りこむ部分によって、描かれた対象は、筆に含まれている墨水の滲みで、周りの空間に溶け込んでいく。この滲みの部分こそ、水墨画に惹かれる理由なのである。

ここで滲みの精神性を考えてみる。滲みは常に変化する水の如く、人為的にコントロールすることはできない。滲みの不確実性は、流転する万物への謙虚さである。ヘラクレイトスのロゴス、プラトンのイデア、不変の存在、輪郭が滲んでも、不変な実体を表出させようとする試み、それが筆に墨をふくませ、描く水墨画に他ならない。 暈し→宗達になく何故現代にはあるのか?社会的背景の違いをそこから読み解けるか?

滲みの輪郭

水墨画の輪郭は、流転の存在、水の滲みが止まった地点にある。絵画とは認識の再構築であるが、認識の先端である輪郭を自然に委ねる水墨画は、認識しない存在を認識している。有に対する無でなく、絶対無の存在である。絶対的な存在は、神である。では水墨画の絶対無は何処に存在するのか?それは、何も描かない白地の部分=紙である。墨で紙に線を描くことは、存在の表出に他ならない。しかし、水墨画では、何も描かない場所を残すことで、「無」の存在を浮き彫りにする。

滲みの辺境

存在としての「無」。水墨画における「無」とは何か?情感である。「無」に詰め込まれた描き手の情感は、真空のゆらぎの如く、見る者の情感に飛び入り、描き手の情感の存在を認識する。「無」は作為であり、意思である。
では、見る者のない作品は、「無」なのか?それは虚である。水墨画における「無」とは、見る者があって初めて成立する概念である。虚は自然界に万遍なく存在する。水墨画で描く滝は、画家が紙に表現しなくても、存在している。誰も見ない絵は、この滝のようなものである。虚は自然であり、意識の枠外にある。矢代幸雄が言うところの客観性が主観性を獲得する瞬間である。

客観的主観の精神性

「無」は「有でない」概念と対立するものではない。しかし、描き手の「無」と見る側の「無」が一致するわけではない。「無」は無限の存在である。描き手が理想とする「無」はあるのか?それは何故水墨画を描くのかというテーマに深く関連している。水墨画の描き手は、視覚で意識できる存在と、物質では存在しない「無」を一枚の作品に同居させることにより、有と「無」を見る側に認識させ、万物の世界を表現しているのだ。

禅画に連なる水墨画の作品は、考えすぎると、最後は筆を省きすぎ、結局何も描かないのが、最高の絵だ、なんて極端になる。

白地の紙の部分を、不変のイデア、描こうとするものを見せかけと過程する。筆の動きは事故の意識の現われである。そして、見ずの滲みは自然である。リアルさを追求したダビンチと省筆の水墨画は、滲みによって統合される。柳澤桂子によれば、科学は統合に向かっているという。最先端の素粒子物理学者は、神を見ている。