「経済・政治・国際」カテゴリーアーカイブ

グーグルの電通化 

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アメリカで新聞社の再編が始まっている。一方、グーグル、ヤフーは、新聞、ラジオの広告枠を販売する戦略を推進する。左図に4月のヤフー、グーグルの提携話をまとめてみた。クリックしてください。

テレビがなくなる、新聞が危ないなど、オールド・メディアの衰退がセンセーショナルに書きたてられているが、これは今までみたいに儲からないというだけであって、時代に即して商売のやり方を変えていけばよい。社会学的見地から、紙媒体の役割が終わったとかそういう話でもないし、テレビ番組や、新聞のエッセーはいつの世でも普遍のものだ。

アメリカ4大ネットワークのひとつCBSのムーンベス社長は、「我々は、コンテンツキャスターだ」と述べ、テレビ電波以外にも、自社コンテンツを提供し、ビジネスをしていくビジョンを打ち出している。新聞社の再編、マードックのダウ・ジョーンズ買収、トムソンのロイター買収などの狙いは、情報=コンテンツだ。金融情報は数値情報が多いので、人材流出しての価値毀損は少ない。

元々、インターネットのイノベーションは、「マッチング」が基本概念だ。一方、既存メディアは「ジャーナリズム」が根底にある。コンテンツのメーカーだ。グーグル、eBay、アマゾンは、コンテンツを創らないのだから、メディアとインターネット企業は、共存できる。

メーカーは利益率が悪く、代理店は資本がいらない。民放キー局の営業利益率は大体8%、一方、グーグルは30%近い。チャンネル、電波という特権を利用しての8%だから、今後コンテンツ流通を多様化すると、もっと利益率は下がるだろう。しかし、コンテンツキャスターとして、(ありえないと思いますが)電波送出設備、電波塔維持管理など固定費を削減すれば、まだビジネスは続けられる。商売は動的なのだから、条件を固定にした議論はあまり意味がない。

さて、グーグル、ヤフーなどが、ラジオ、新聞の広告販売を請け負うのは、リアルな生活シーンを細かくセグメントしているからだろう。人間24時間パソコンの前に座ってるわけではないのだ。マス媒体ではあるが、グーグルは、エリア、嗜好性などでターゲティング、出稿するだろう。

テレビのネット利用は、今でも番組プロモーション用だ。マスな人数をネットで宣伝して、テレビの前に同時に座らせて、商売する。今までは、大金が動く商売だったかもしれないが、今まで通りにはいかない。一番困るのは、実は広告代理店だったりする。代理店は商人、クリエイティブな職人産業ではない。販売する広告枠の衰退は、死活問題だ。

Costomer Generated Media, User Generated Contentのほうが、ビッグネームなメディアよりも、媒体数、接触する人が多い。代理店は、販売枠がなくなると困るが、メディア側の人間にとって、メディア本来なにかを訴えるためのツールなのだから、形式はどうでもいいはずだ。今まで以上の給料がもらえないとか、そういう欲が大騒ぎをさせているだけだ。

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イノベーションと水墨画、華麗なる一族最終回

華麗なる一族について演出家の鴨下信一氏が、面白い分析をしている。1973年が日本社会のある種の転換点であり、中産階級の大量消費時代の元年だろう、と。前回華麗なる一族が放送された1973年は、その前2-3年と全く違う世の中だったという。そして、今大量消費時代が終わりつつあるらしい。華麗なる一族は、時代の終焉に出現するドラマらしい。確かに、日々色々な人、特に年配の人と話していると、「先達に学ぶ」という気持ちを忘れずに持ちつつも、「ちょっとした違和感」を感じることがある。

先日ある年配の経営者と話をしていた。その方は、最近自分の視聴率のヒット基準を20%から17%に下げたが、それでもヒットといえる番組が無いという。何か違和感を感じた。第一に、僕の友達はみんな録画をして「花より男子」などドラマを見ていると言っていた。だから、結構ドラマの話題は共通に盛り上がってるのだ。家に帰って、ドラマの時間を待つなんてことはしないだけだ。この話を披露したところ、そうじゃない、番組の質なんだと、その経営者は言った。その場はふーんということになった。第二に、過去のヒット作との連続で視聴率を分析している点だ。親子、違う世代が一緒になってテレビを楽しむことなんて、ハナからないことが若い人には普通だ。30%、40%視聴率を基準に、イマを眺めても作り手の悲観論が浮かぶだけだろう。

これもトある月曜日、ある会議に出席したら、事業計画のヨコに、家計可処分所得の推移が記載されていた。可処分所得が増えれば、自社売上も伸びる、消費者の財布の○%を獲ろうという説明だ。政府統計と自社事業計画を結びつけるのは、「春風が吹くと桶屋が儲かる」くらい実感が薄い。マクロ指標を暗記しただけで、何を生み出せるのか。週刊新潮連載の「窓際OLの日記」に、「”仕事デキず、ヤル気あるヤツ”が上司になると、書類だけ増える」という話が載っていて笑えた。これも、トある会議で、マネージャーがハケンのAさんに、インターネットのぺージをプリントアウトしてファイルに保存して貰います、と発言した。古今東西、新たな仕事が生み出せないマネージャーは、現状の仕事を細分化して保管・整理する仕事に邁進する。仕事自体のパイは増えない。マクロ、過去データの把握は、必要条件だが、十分条件ではない。

シュンペーターは、イノベーションを非連続な革新と定義した。もっと実際的に言うと、イノベーションは行動である。偶々読んだ新聞で、アドバンスト・メディア社長の鈴木氏が、イノベーションを定義して、「今までなくてもよかったものがなくては困るものに変ったときにおきるモノ」と言っていた。(2007年2月17日朝日新聞Beインタビュー) 変革点を過ぎてしまった今、過去データの延長線上が未来予測ではない。岩井克人氏が述べるところの、差異性の連続こそが新たな生きる術である。1973年から続いた大量消費の終焉。歴史から学ぶことはあるけれど、短期的な先達の知恵は、役立たない時代になっている。

水墨画は描かないことで気持ちを伝える技法を、日々鍛えるアートだ。筆数もなるべく減らす。よく美術館の企画展に行くと、大きな画面に細かな作業で完成させるアート作品を見かける。こうした細かな作業作品は、デキナい上司が今ある仕事をただ細分化してるのを、思い浮かばせる。確かに、細分化する社会という現実を映しているかもしれない。しかし、差異化という点では弱すぎる。中産階級のアート、ポップカルチャーが生み出したデザイン、カラフルな商業芸術。見る人は誰もがキャンベルスープを思い浮かべる。しかし、時代の変革点にいる自分たちに必要なのは、差異性のあるアートだろう。一筆一筆違う作品、見る人により感じる色が違う、など水墨画も差異性を基に作品を生み出していけば、少しはイノベーションを起こせる。

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YouTube動画配信とテレビ局 編集スキルの一般化

先日、放送・テレビとインターネット・通信の融合に関する講演会に参加した。

テレビ局は、YouTubeに厳しい態度をとっている。テレビ局として、見て欲しくない映像を流している、からというのが理由だ。

昔、レンタルレコード屋ができたとき、レコードの売上が落ちることが議論されていた。結果は、結局レンタルされた方が売上は伸びたのだ。今は、レコード、CD、形にプリントして配布する音楽は廃れてしまったけれど。。音楽業界の売上は、最盛期6000億円から、今は3,500億円になってしまった。。。

インターネット関連の技術・サービスが新たに開発されると、必ず既存の業界=生産者の声高の非難に晒される。しかし、結局は生産者としての業界は徐々に衰退していく。インターネットは、ユーザー側の論理、数で支えられる。儲ける人もいない、相互扶助なコミュニティだ。少数のインナーサークルが牛耳る業界は、圧倒的な数に負けてしまう。テキスト、画像、音楽と、大資本が不要なコンテンツから順番に、業界売上規模が減少している。次は、映像だ。

プロか?アマか?を、気にするアートは、大抵機械が高価だ。1台500万円したハイビジョンカメラを趣味では持てない。10万円もする編集ソフト、100万円の放送機器など、個人で買う人はいなかったハズだ。広いスタジオ、宣伝、お店への営業、音楽アーティストが個人でできる範疇にはなかった。エンターテイメントで、業界が偉かったのは、こうしたハードが高価だったからだ。

映像でプロといわれる人は、高価なハードを使いこなす人、技能を指していた。業界の参入障壁は、コンテンツ自体ではなくハードだった。しかし、今1万円で編集ソフトが買え、10万円だせば高細度ムービーが買える時代になってしまった。そうすると、ハードを扱う技術を持ってるだけでは、プロとは呼べなくなる。どれだけ、ユーザーの支持を得てるか、というコンテンツ本来の勝負になる。

プロとアマの境界がなくなる。世の中で、テレビ製作のアーティストです、と自身を述べるヒトは1000人いないだろう。しかし、筆1本、あるいはギター、PCで曲作る、絵、音楽を制作しているヒトの多くは、自身をアーティストです、言っている。たとえ、バイトの副業があっても、プロです。と言うはずだ。

映像「編集」技能は、エクセルの表計算のような、普通かつ必須のビジネススキルになるだろう。例えば、パワーポイントにフラッシュで作った映像を入れてプレゼンをする、なんてことは誰もがやるようになるのではないか。機材、編集ソフトが安くなり、ブロードバンドが広まってる今、映像の世界でも、テキスト、画像と同じことが起こるだろう。

テレビ局は、前向きに考えたほうがよい。極楽とんぼが号泣した映像に300万回アクセスがあったのは、顧客ニーズがあったからだ。お笑いのネタ、ニュース、最大10分で見たいところだけ見れる利便性に、視聴者は反応している。ウォークマンが音楽を外に持ち出したように、ワンセグは、テレビを外に持ち出す。ニュース、ドラマを電車で10分だけ見たり、タカアンドトシのネタをお茶しながら見たり、映像の視聴機会の多様化と増加は必ず起こる。アメリカのテレビ局は、YouTubeと提携している。CBS、NBAは、自社の番宣などを流している。YouTubeで映像を流してから、視聴率が上昇したという報告もある。

テレビ局が、動画共有サイトというモデルをそのまま真似しておいて、著作権云々を主張する姿は、ちょっと恥ずかしい。今までの映像のプロは、高価な編集機材、アレンジの卓をいじれることが、パワーの源泉だった。ハードと流通の優位性が無くなった時、今までのプロはプロではなくなる。他人にウケる表現、アイデアを持ってる人をプロと呼ぶようになるだろう。

今までの映像業界は、少数の製作業界とコンテンツにお金を払うユーザー、あるいは広告スポンサーの存在だけであった。民放テレビ局の業界規模は、約2兆円。NHKは7000億円。東宝でも、2000億円。トヨタの利益が1兆円、タイムワーナーの売上は、4兆円。テレビ・映像関連の事業は、まだ伸びる余地がある。これから5年、映像製作が、普通の生活にも気軽に入りこんでくるところに、ビジネスチャンスがある。

今はまだ、映像製作、編集経験がある人材はテレビ局周辺に限られている。優位性は時間とともに減衰する。今はチャンスだ。

今自分で作ってる水墨画動画素材は、ここをクリックすると見えます。こんなレベルだけれど、これも慣れじゃないかと思っている。

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ジャパネット高田社長の話 会社とアート作品

ジャパネットタカタの高田社長の話を聞く機会があった。

「感動を語る」ことを強調していた。高田社長にとって、ジャパネットは自分のアート、表現方法なのだと思う。昔、GMの社長が「GMはアートな車を作ってる会社ではなく、車を作っているアートの会社だ」と定義したという有名な話がある。自己の表現方法としての「会社」を思い浮かべるのは一般的でない。しかし、ベンチャーやってる社長は、みんな会社は自分の作品、ビジネスは自己の表現方法だと思っているハズだ。

アイデアの具現化、顧客へのマーケティング。アートとそっくり。具現化の技能、伝えるコミュニケーション能力。売れるアートも伸びる会社も、条件は同じ。だからこそ、ビジネスにアートの要素を持ち込み、アートにもビジネスの要素を持ち込めば、新たな展開が開ける。

高田社長は、マーケティングは常に受身で考えていると言っていた。「伝えたか」ではなく、「伝わったか」を大事にしている。より多くの情報をテレビ、ラジオの向こう側にいる人と共感できるような工夫をする。ひとつが、手、指を使うこと。「この液晶画面大きいんです」と言いながら、指でその画面をなぞる。そうすると、テレビ見てる人の視線はその指を追いながら、画面の大きさを実感するという。「心の目で見させる」という言葉で、実感の共有を表現していた。

マーケティングの学会定義は、「顧客との関係性」である。関係性を築く細かいノウハウは、企業の中にたくさん存在している。ジャパネットタカタの商品選択基準は、メーカーの商品開発者のココロに感動したかどうかであるという。「関係性」の上に、「感動」という机上では分析できないモノを載せる。商売、ビジネスも、アート作品と同じだ。

ジャパネットタカタの売上構成:カタログ300万部、40%。テレビ20%、ラジオ10%、インターネット170億

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ポスト産業資本主義と水墨画

文芸春秋3月号に岩井克人教授の現代ビジネス分析が掲載されている。産業資本主義では、モノの所有、生産が富を生み出す。つまり、安価な労働力と売価の差が利潤となった。労働賃金が上昇すると、利潤が薄くなり、ポスト産業資本主義に移行しているという。ポスト産業資本主義では、違うモノを開発した企業が利潤をあげる。違うモノ、新しさは、同じ機械では生産できない。ヒトしか生み出せない。そこで、ヒトが投資対象になるという分析だ。社会的に見れば労働賃金が上昇し、生活が豊かになれば、嗜好が多様化し、ヒトと同じモノを身につける見栄の感覚が減少する。

ウォーホルがキャンベル缶を作品にしたのは、まさに産業資本主義のアートだったからに他ならない。ポスター、リトグラフの再生産も、産業資本主義の社会を写していたのだろう。音楽も、CD,ラジオ、レコードを使うことで、再生産を繰り返すことが可能だ。水墨画は、印刷すれば再生産を繰り返すことができる。アートのビジネスは、こうした商業的広告的デザイン的な換言で、利潤をあげてきた。アートの大量生産、どんなヒトも同じポスターの絵柄を見る。キャンベル缶はキャンベル缶である。

ポスト産業資本主義社会で水墨画は、どのような文脈を持てるのか?水墨画は墨一色の芸術である。言い換えると、表現の制約、鑑賞の自由がある。産業資本主義は、生産者重視の社会である。基本的にモノ不足であるから、メーカーが一番力を持つ。現在は、モノ余りの世の中である。消費者は欲しいモノしか買わず、メーカーよりもビックカメラ、ヤマダ電機、イオンなど流通が価格決定権を持っている。生産者重視の社会では、アーティストの主張が詰め込まれた作品が作られた。偶々、新日曜美術館を見ていたら、池田満寿夫が芹沢介特集で、最近デザインは自己主張が強いが芹沢さんは違うということを話していた。1984年の映像。

そこで、水墨画である。色の多様性をハナからもぎ取られた水墨画は、色の決定権を見るヒトに委ねる。墨色の紅葉は、見るヒトによって黄色、オレンジ、真っ赤に感じる。同じヒトでも、見る時間によって色が変る。表現を制約することで、変化を内在するアート。受け手にとって常に新しく、変化するアートになる。

多様化な社会、アートの利潤はどこに生まれるのか。大量再生産にはお客さんは振り向かない。かといって、1点モノを生み出して得られる収入と生活に必要な支出は不釣合い。先週のヘラルドトリビューンに、JPEGが商売になっているというNY発の記事がでていた。JPEGは流通コストがタダに近い(インフラ業者以外)。JPEGに経済価値がつくなら、こんないいことはない。また、オークションなどインターネット上は、より手軽に身近だ。流通市場が身近なら手放すときのリスクも少ないから購入しやすい。自分のコレクションも、ネット上で公開する時代が普通になるのだろうか。

水墨画は、ポスト産業資本主義に最も呼応したアートになりうる。それには、多様なヒトが多様に見える仕掛けを施すことが必要だ。

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全体の抽象・分析の抽象 見立てと分解

Abstract この写真何に見えるだろうか?カビ?魚の群れ?種?何に見るかは、人それぞれの自由だ。水墨画は、画題の精神性という側面から解説されることが多い。自分の心のうちを具象を使って表すという。しかし、この解釈の仕方って、宗教画を研究するイコン学?の影響を受けすぎではないだろうか?僕の仮説は、ただ写実に自然を写し取る絵にすぎない、というものだ。

歴代名画記(大抵水墨画評論の古い本は、この本を参考にしてる)に、「吹雲」という話が載っている。墨を口に含んで、吹き付ける。それを絵と称す。あるいは、王默という人が、「酔って髪に墨をつけて描く」という話が載っている。落語にも、左甚五郎が描いたグチャグチャとした何かが、雀となって飛び立つ、抜け雀という話がある。

このような絵画の考え方、分析好きな西洋では発展しない考え方だろう。プラトンは、絵描きを実態と本質の間を形にしてしまうとして、嫌っていたという。より本物ぽく、動きをデッサンし、色を描く。色は光である。本質に近づくための文脈が、印象派を産み、キュービズムを生んだ。西洋アートの文脈で、抽象を描くとイッちゃう作品になる。植物、生物の生態、ファーブル昆虫記が突き進むと、もう何かわからない原子、電子の世界での議論と同じである。モンドリアンの樹、ピカソの顔の絵を見て、子供が美しいと思うだろうか?僕は少なくとも綺麗だとは思わなかった。それは、人間の脳で作られた人工の世界だからであろう。

一方、適当に吹き付けた模様に何かを見る。森を見て、西洋的ロジック分析思考を働かすと、フラクタルになる。全体を見ると、例えば蛙森のような呼び名が生まれる。水墨画の抽象、村上隆述べるところの西洋アートの文脈に載せるのか、東洋の伝統を意識するのか、アートのマーケティングで考えるべきところである。

全体と部分という話は、どうしても乗り越えなければならない課題だ。しかし、こんなことを考えるのが何の役にたつのか?多数決、民意、人気、検索順位、現代社会の行動規範は、個別の積重ねが全体の総和、意思に等しくなるという概念に基づいている。しかし、実感として、そうじゃないこともあるんではないかと感じることが多い。例えば、グーグルだって検索1位のサイトが、自分の見たいサイトでないことは多い。それに、巷では世界で一つの花、個性を強調しているのに、議会の意思決定は多数決なのは、矛盾していないか。合成の誤膠を、アートで表現できるなら、それは、全体性、調和という概念のプロモーションに有効だと考える。

分析、分解を突き詰めた結果、あまり美しくない図になるのと、雲の形に美しさ、違う概念を導入するのと、どちらが見ていて心地よいだろうか?後者であろう。自然の形状から美を取り出す取り組み、「見立て」。水墨画の抽象画は、分解分析の抽象ではなく、全体、見立ての抽象、西洋アートに対するは新しい概念軸ではないだろうか?

さて、水墨画の精神性、題材、構図に精神性を求めるのは無理があるだろう。自然を紙の上でただ表現した、にすぎないと思う。鳥を描いて、鳥に見える。虚空を見つめるのでなく、餌を探す、他の鳥を見ている、だけだと思う。あるいは、紙上に自分が空を見て、見えたものを紙に表現したのではないかと考える。水墨画の抽象画、分析でない絵画としての水墨画を作っていくべきだ。

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遠近法 細分化 認知

長期記憶と短期記憶、机に隠れた足があると認識するのは、人は「期待、記憶」で見るからだと、ソルソは述べる。(脳は絵をどのように理解するか 絵画の認知科学、新曜社、ロバート・L・ソルソ)ヒトの認知、視覚が「3次元のものを2次元で見て、3次元で理解するように、数億年以上進化してきた」という事実を、遠近法にあわせ解説している。よく言われるルネサンスによる遠近法の確立は線遠近法の確立であり、ぼかし、対象の大小などは、エジプト絵画、水墨画など、世界各地に存在していたと指摘している。

ヒトの認知が、長期記憶に基づいているならば、売れる絵画は、より多くのヒトの記憶、最大公約数に基づくものになるのではないか?芸術は社会の鏡であるという言葉は、このことを言っている。マーケティング、社会学的に、好みが細分化してしまった社会では、最大公約数はなんなのか。印象派、ピカソ、などは、目と脳の働きの科学的な分析、認知に関する哲学的な真理の追究を、絵を通して実現していたと言える。水墨画は、僧侶という職業が別にあった人も多い。洋の東西を問わず、絵画、美術にはパトロンがいた。ということは、マーケットは初めから細分化された、一部のものであった。再び、マーケットが細分化された世の中で、パトロンなしにアートで収入を得ることはどういうことなのか。

ローカル グローバル パーソナル

Charactors2 パリのマーケティング大家カプフェレの著作、「ブランドマーケティングの再創造」に、「ローカルに考え、グローバルに行動する」という一句がある。サーチエコノミー(ザ サーチ グーグルが世界を変える、ジョン・バッテル)な現在、ローカルなメーカー(有形無形に関わらず)は、グローバルな市場進出のチャンスである。サーチエコノミー上でも、土地は動かせない。ローカルオリジナルは、オンリーな商品、世界市場で勝負する時期。

インターネットにまつわる社会変革の予想は、必ず実現する。ケータイ、ゲーム、マネー、音楽、ニュース、など数年前の未来は、数年早く現実になるのが実感だ。なぜか?ブロードバンドインフラの整備が急ピッチで進んだからである。VAN、キャプテンなどが普及しなかったインフラが今はある。これからは、動画、映像の時代が予想より早く来る。

インターネットバブルの1999年、アメリカのビジネススクールでは、E-Commerceの授業が人気だった。僕も授業を取ったが、今から考えれば単に、ブログを作る程度のモノだった。その頃のEコマースのアイデアは、新人歌手、作家を売り出すというアグリゲーター(Agregator)という概念が主だった。現実には、一般ユーザーが、サイトに辿り着けないので、失敗に終わる。そこで、Yahoo!などの人的ポータルサイトのアイデアが主流になる。日本でも2004年頃までは、ネット系ベンチャー起業の多くが、何かのポータルをやる、というのだった。

現在は、サーチ・エコノミーである。5年前からポータルは一つでいいのでは?という考えは提示されていた。ユーザーは、Yahoo!以外のポータルにアクセスするのだろうか、という疑問だ。グーグルは、検索(誰も気にとめていなかった・・・)で、ヤフーを抜きポータルになってしまった。サーチ・エコノミーでは、自社サイトへ客を誘導することすら、古くなりつつある。CGM(日本流呼称)、あるいは楽天に出店しなくても、検索されればいい。

日本は500兆円の大きな市場だけれど、60億人のうち1億人。英語表現を加えれば、どれだけチャンスが増えるのか。中国人もネットビジネスでは、全て英語で事足りる。アメリカで流行ってるものを輸入して、国内で儲ける商売より、日本のモノを輸出したほうが、はるかに刺激的。

水墨画=日本オリジナル、というマーケティング。海外の人に、どう見られているのか?どんな技法が受けるのか?自分で思ってるのと大分違う。水墨画も、何をいい作品と呼ぶのか、体系作りをしてみる。

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